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このページの目次
 これらの映画を愛する人たちは決して読まないでください
 『ゴッドファーザー』と『ロード・オブ・ザ・リング』
 『風と共に去りぬ』
 『2001年宇宙の旅』
 『第三の男』(撮影中のエピソード)


 「私が選ぶオールタイムベスト映画」について書く前に、日本やアメリカの評論家などが選ぶ世界映画史上の名作に対する私の疑問を述べたいと思います。わかりやすくいえば、「なんでこれが名作映画なの」という昔からの私の思いを吐露(とろ)しようというわけです。ただ、このページは、「映画・Jポップエッセイ」としては珍しく、私の毒舌が炸裂(さくれつ)しますので気をつけてください(というのは少しオーバーですけど)。

 具体的にいえば、このページは次の映画を愛する人たちは読まないことをおすすめします(特に最初の四作)。

 『ゴッドファーザー』『ロード・オブ・ザ・リング』『風と共に去りぬ』『2001年宇宙の旅』『第三の男』『市民ケーン』

 自分が愛する映画を批判されたりけなされたりするのは、恋人の悪口を聞くようで、ひどく腹が立つことがあります。ですからこれらの映画を愛する人たちは決してこのページを読まないでください。精神衛生上よくありませんから。(こう言われるとなおさら読みたくなるものですが)


 というわけで、これからこれらの映画史上に残る不朽(ふきゅう)の名作を私の視点から批判、というよりけなしたいと思います。まず『ゴッドファーザー』と『ロード・オブ・ザ・リング』。この二つのシリーズは、はっきり言って凡作です。

 「映画評論家とは何か」という問いに対し、私は「映画評論家とは最も映画を見る目のない人たちのことである」と答えます。映画評論家の大御所的存在である双葉十三郎氏なんかも、私は「映画オンチ」であると思ってます。しかし、彼の意見と一致することもしばしばあり、それは『ゴッドファーザー』は凡作であるということ。かつて『ゴッドファーザー』について双葉氏は、「コッポラの演出もたいしたことない」と書き、コッポラの『地獄の黙示録(もくしろく)』では、「『ゴッドファーザー』のときよりだいぶ演出がうまくなった」と述べてましたが、この点は私も大賛成。

 まあ、凡作なので内容についてはあまり書く気がしないのですが、この映画は、日本よりむしろアメリカで異常に高く評価されていて、必ず映画の史上ベストテンの上位に入ってます。でも、アメリカの映画評論家や映画人が選ぶベスト映画も、特にベストテンになると首を傾げるような作品がやたらと多い。たとえばミュージカル映画の『雨に唄えば』。いや、じつは私、この映画は好きです。楽しくて面白いし、五十年代のMGMのミュージカル映画の中では最高傑作といえるかもしれない。でも、アメリカ映画史上のベストテンに入れるような映画でしょうか。ミュージカル映画を料理にたとえれば、『サウンド・オブ・ミュージック』や『ウエストサイド物語』がフランス料理のフルコースとするなら、『雨に唄えば』は町中の洋食屋さんのおいしいコロッケ定食といった感じ。レストランのランク付けをするミシュランガイドの調査員が、たまたま入った洋食屋で絶品のコロッケ定食を食べ、何を血迷ったか、その店に三つ星を与えてしまったみたいなケースが、『雨に唄えば』のベストテン入りではないでしょうか。いわば、ひいきの引き倒しというところ。この映画としても、ベスト映画の五十位ぐらいにいるほうが居心地がいいと思うのですが。

 さて、次は『ロード・オブ・ザ・リング』。『ゴッドファーザー』と同様、なんでこんなにこの映画の評価が高いのか理解できません。やたらと長くて退屈な部分も多いし、凡庸(ぼんよう)なファンタジー。ハリー・ポッターシリーズの初期の作品ほうがはるかに面白いし、出来もいいと思います。演出も、それぞれのシーンでしつこいくらいカットを重ねて丁寧に描いているけど、映画史上の多くの名作に見られるような品位が感じられない。

 映画評論家のドナルド・リッチー氏だったと思いますが、「スピルバーグの世代ではまだアクションがコントロールできていたが、その次の世代の監督ではアクションが暴走している」とか書いていました。これは主として『ロード・オブ・ザ・リング』などのことをいっているのではないかと思います。「アクションが暴走している」とはうまいことをいうものだと思いました。ピーター・ジャクソン監督の映画というのは、『キングコング』にしても、アクションシーンがやたらと長い。これでもかこれでもかとカットを重ねて、いつ終わるのかという感じ。これはもしかしたら、彼らが子供のときから任天堂やコンピューターのゲームを続けてきたことと関係があるのかもしれません。私はコンピューターゲームはやらないけど、パソコンにおまけに付いていたゲームを少しやってみたことがあります。すると、夢中になって三時間ぐらいすぐに過ぎてしまう。したがって子供の時からゲームを毎日やっていた世代というのは、「適度な時間で切り上げる」という感覚に乏しいのかもしれません。いつまでたっても終わらない、終わらせたくないゲームに慣れてしまった世代の映画監督たちは、アクションシーンもやたらと長く、しつこく描く傾向がある……というのは考えすぎでしょうか(たとえば、ジョン・ウー監督の『レッドクリフ』もそうした映画の一つ)。


 さて、次はアメリカ映画史上の名作として不動の地位を誇る『風と共に去りぬ』。昔この映画を見たとき、確かにスケールが大きくて見所がたくさんある映画なんだけど、なんかもう一つ面白さに欠ける、映画に感情移入できないという感じでした。演出はヘタではないけど、いわゆる巨匠が行う演出のような深みがないし、うまいと定評のある脚本も「うーん、これでいいのかな」という感じ(ただし、音楽だけはすばらしかった)。ところが、三年ほど前に、『七人の侍』などのシナリオを書いた脚本家の橋本忍さんの本を読んだら、「『風と共に去りぬ』は、うどの大木だ」と書いてあったので、専門家のなかに初めて自分と同じ意見を持っている人がいることを知り、少しうれしくなりました。

 しかし、この映画にあまり感情移入できなかったのは、演出や脚本という以前に、ヒロインのスカーレット・オハラの描き方にあるといえるかもしれません。はっきり言って、あの性格は嫌悪感(けんおかん)を感じるものでした。ところが、この映画のメイキングをテレビで見たとき、スカーレットを演じたビビアン・リーが「こんな雌犬みたいなスカーレットは演じられない」と拒絶反応を示していたと知り、驚きました。やはりそういうことだったのかという感想を持ったしだいです。

 私は二十代のとき、『アフロディーテ』というシナリオを書くために、一年がかりで世界文学全集を読破したことがあります。しかし、『風と共に去りぬ』は映画がもう一つ面白くなかったため読みませんでした。だから原作のスカーレットの描き方がどうなのかは知らないのですが、おそらく映画のような嫌悪感を感じるような性格とは違うのでしょう。仮に、『ベン・ハー』や『ローマの休日』の巨匠、ウィリアム・ワイラーが存命中にこの映画をリメイクしたなら、演出と脚本という点でははるかに優れた映画ができた可能性があると思います。ただ、ビビアン・リーとクラーク・ゲーブルに匹敵する適役を見つけることは不可能だったでしょうから、実際には再映画化はありえない話ですけど。


 さて、残る「私が理解できない名作映画」は、『2001年宇宙の旅』『第三の男』『市民ケーン』の三作。日本人でも、この三作、特に最初の二作に対する思い入れの深い人たちは多いですね。ただ、この三作は『ゴッドファーザー』や『ロード・オブ・ザ・リング』と異なり、演出は天才的なところがあります。また、映像美はすばらしい。しかし、脚本がよくわからない部分が多くて、もう一つ面白くない。「テクニックに(おぼ)れている」という感が(いな)めないんです。特に『2001年宇宙の旅』の難解さは有名ですね。この映画は一度見ただけではわからないということなので、何回か見たのですが、それでも特にラストの意味がわからない。そこである人にそのことを話したら「あの映画は原作を読まないとわからないようになっている」と言われたので、さっそく原作を読んでみました。すると「なんだ、こういうことだったのか」と初めて納得。

 じつは、キューブリック監督は最初、この映画にナレーションを入れて内容の説明をする予定だったのですが、気が変わってやめたということなのです。では、ナレーションのかわりに、観客の理解を助けるために何をしたのかというと、何もしなかったのですね。

 「それはないよ、キューブリックさん」と言いたくなります。映画というのは、難解にしようとするのは簡単。その一方で、複雑なことを説明的でなく観客にわからせようとするのは、ものすごく難しいんです(その難しいことに挑戦して見事に成功しているのが『アラビアのロレンス』です)。『2001年宇宙の旅』にしても、この内容をナレーションのような説明を用いずに観客に理解させようとしたら、とてつもなく困難なことでしょう。しかし、その困難さから逃げてしまったため、この映画は失敗作になってしまいました。ところが、一部の人たちは、その失敗から生じた難解さを、芸術的高尚(こうしょう)さと勘違いしたんですね。ピカソがミスをして絵をかいても、「さすがピカソだ。常識を超越している」と感心する人たちがいるのと似ています。(ただし、キューブリック監督の『博士の異常な愛情』は傑作です)


 さて、次は『第三の男』ですけど、キャロル・リード監督というのは、私が最も好きな監督の一人です。でも「私のプロフィール」の中で好きな映画監督としてはあげていません。キャロルリードが好きといえば、当然その代表作である『第三の男』のファンであると勘違いされるだろうというのがその第一の理由です。しかし、私が彼のファンだというのは、アカデミー作品賞を受賞したけど、当時日本の評論家たちには酷評(こくひょう)されたミュージカル映画の『オリバー!』の監督だからです。映画ファンの「常識」に反して、キャロル・リードの最高傑作は『第三の男』ではなくて『オリバー!』であるというのが私の考えです。『オリバー!』は「私が選んだオールタイムベスト映画」の第一位に『サウンド・オブ・ミュージック』と共に選んでますが、また別の機会に詳しく説明したいと思います。

 ということで、『第三の男』は私にとっては、名作といわれるわりにはもう一つ面白くない映画ですけど、私の好きなキャロル・リード監督の作品でもあるし、演出は優れているうえ『2001年宇宙の旅』のように難解であるというわけでもないので、特に批判は述べません。そのかわり、以前NHKのBS放送で放映していたこの映画のメイキングの中で面白いエピソードがあったので、それについて記しておこうと思います。

 この映画には、『市民ケーン』の監督で、俳優でもあるオーソン・ウェルズが出演しています。まあ、キャロル・リードもオーソン・ウェルズも、一種の映画的天才でしょうけど、性格は対照的ですね。端的にいえば、キャロル・リードは性格がいいけど、オーソン・ウェルズは、そのふてぶてしい顔から想像できるように傲慢(ごうまん)でわがまま。政治家でいえば、小沢一郎というところでしょうか。『第三の男』の撮影のときもホテルにこもっていて、なかなか撮影現場に現れないんですね。自分は『市民ケーン』の監督もした天才なんだから、もっと出演料を上げろということらしいんです。そこで『第三の男』の助監督が、彼が撮影に加わってくれるように説得にいくわけです。ウェルズが手品が好きなので、手品師を連れていって彼のご機嫌をとろうとするなど涙ぐましい努力をするのですが、この助監督が、のちに007シリーズなどを監督するガイ・ハミルトン。娯楽映画を撮らせたらなかなかうまい監督です。

 さて、ハミルトンの必死の努力もあってウェルズはなんとか撮影現場へ行くわけですが、巨大な下水道の中での撮影になったら、悪臭がして汚水も垂れるということで憤慨(ふんがい)し、またいなくなっちゃう。そこでこうした困った事態に頭を悩ませたキャロル・リード監督は、苦肉の策を考え出しました。すなわち、撮影に「影」を最大限に用いるということです。影ならオーソン・ウェルズ本人でなくてもわからない。助監督のハミルトンを走らせてその影を撮り、ウェルズが走っているように見せたわけです。ところが、これが演出として効果的で、この映画の評価を高めるのに一役買ったというのですから皮肉なものです。

 しかし、このような「怪我(けが)功名(こうみょう)」みたいなことは映画撮影ではけっこうあるみたいですね。 『サウンド・オブ・ミュージック』の『何かよいこと』というナンバーでは、ジュリー・アンドリュースとクリストファー・プラマーのラブシーンが描かれるのですが、このシーンでジュリー・アンドリュースはいわゆる「はまってしまった」状態で、笑いが止まらなくなってしまったんです。何十回撮り直してもだめなので、困りはてたロバート・ワイズ監督は、やはり「影の演出」を考えて二人をシルエットにして撮ったわけです。そうしたらそれが効果的で、演出としても最高のものになりました。名作映画というのは、何か見えない力に導かれて、マイナスの要素もプラスに変えてしまうというようなことがあるようです。


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