SABOの八つの世界   

             嫌いな日本語 ①
風水の真実ザ・有名人占星術映画・Jポップエッセイ私の映画企画私のマニフェスト八道州・七新都市構想ここがおかしい 日本人類の歴史を変える新哲学

HOME(トップページ)

メッセージ

私のプロフィール

メール・コピー等について

サイトマップ

SABOの東京名所写真

 「ここがおかしい 日本」に戻る  「嫌いな日本語 ②」に進む
このページの目次
 過度の強調から生じる奇妙な日本語
   「有効活用」
   「激白」「120パーセント」
 「気取り」から生じる奇妙な日本語
   「VTR、セレブ」
   「アーティスト」
   「ヴァ、ヴィ、ヴェ」

過度の強調から生じる奇妙な日本語
「有効活用」
 最近、よく新聞やテレビなどで使われる「有効活用」という言葉が気になってしかたがない。活用というのは有効利用することなのだから、有効活用というのは「有効有効利用」ということになってしまう。よく言葉の誤用としてあげられる「馬から落馬する」と似たような重複した表現といえよう。以前はこんな奇妙な表現を行うメディアはなかったと思うが、昔から常に言われてきた「日本語の乱れ」というのが、最近特にはなはだしいように思う。私は決して完璧な日本語を使う人間ではないし、間違えることもある。しかし、正しい日本語を使いたいという意識は常に持っているし、奇妙な日本語に対する拒絶反応も強いほうだと思う。そこで、私が以前から気になっている「嫌いな日本語」についてこれから述べることにする。

 ところで、奇妙な日本語とか、言葉の使い方の誤りとかはなぜ出てくるのだろうか。一つには言葉を使用する人間の無知から生じるものである。テレビ番組で「汚名返上」を「汚名挽回(ばんかい)」と間違えるようなケースはよく見るが、敬語の間違いなどは日常茶飯事(さはんじ)である(ただし、『汚名挽回』は正しいという説もある)。日本語の敬語というのは確かに難しくて、私も難しい敬語を使いこなす自信はないが、ある大手スーパーの商品の陳列棚に「お値下げしました」という印刷したシールが貼ってあったのには驚いた。これはもちろん「値下げいたしました」が正しいわけで、値下げする自分のほうに「お」を付けるという初歩的な敬語のミスである。

 しかし、先程指摘した「有効活用」という言葉は単に言葉の使用法の誤りという説明だけでは不十分のように思う。そこには現在のおかしな言葉の使い方の多くに共通する「過度の強調」という意識が働いているのではないだろうか。そしてその元凶はテレビ番組というのが本当のところだろう。新聞のテレビ欄にはしばしばタレントが激怒したとか号泣(ごうきゅう)したとか、ときには大激怒、大号泣などという大げさな表現が見られる。しかし、実際に番組を見てみると、タレントは単に少しムッとしたりシクシク泣いたりしているにすぎない。しかも、そのタレントの怒りも、たいていは放送作家が書いた台本に基づく演技である。

 視聴率至上主義が支配している放送界では、放送関係者はどんな手段を使ってでも視聴率を上げなければいけないという強迫観念にとらわれている。そのためには正しい日本語を使おうなどとはいってられない。とにかくテレビ番組欄では誇大な表現を使用してでも人々の気を引くことにより自分の番組にチャンネルを合わさせ、番組では狂ったように大量のテロップを挿入してタレントの言葉の表現を強調する。それにより視聴者がどれだけうんざりしているか、ということには考えがおよばない。とにかく誇張した表現や視聴者に与える強い刺激こそが視聴率向上に役立つという考えに()り固まっているように思える。

 これは言葉の問題ではないが、テレビドラマ、特に喜劇において大げさな演技が目立つことも「過度の強調」により視聴者を引きつけようとする意図によるものであろう。俳優が大げさな演技をする喜劇というのは笑えない。昔、映画の『幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ』の撮影で、武田鉄也が柵に足を引っかけて転ぶシーンがあった。しかし、十回以上撮影しても山田洋次監督はOKを出さなかったという。そして、武田鉄也を「どうして観客を笑わそうとするんだ」と叱ったという。観客を笑わそうとして転ぶ演技をすると、わざとらしくて笑わせることができないということが、名監督はわかっていたのである。映画監督というのは、自分が監督した映画を映画館で見て観客の反応を知ることができる。だから俳優がわざとらしい大げさな演技をしても観客はあまり笑わないというようなことを学べるのである。しかし、テレビディレクターは、視聴者を見ることができない。したがって、チャンネルを変えられることの恐怖から、ドラマでは過剰な演技、過剰な演出を行い、バラエティー番組は過剰な表現、過剰なテロップで埋めつくされる。

「激白」「120パーセント」
 こうした「過度の強調」はテレビ番組にかぎらず、週刊誌やタブロイド紙などの見出しにも見いだされる。たとえば、タレントが異性と付き合っていると、必ず「熱愛」である。しかし、単に軽い付き合いかもしれないし、遊びかもしれない。なぜ「熱愛」であるとわかるのか。あるいは過度の強調としては、「激~」というのもある。先程指摘した軽い怒りでも激怒と表現するのは、事実を(いつわ)ってはいるが、誤った日本語ではない。しかし「激愛」というのは造語だし、おそらく女性週刊誌が作り出したであろう「激白」という言葉はわけがわからない。「激~」というのは、「~」が激しいことをいう。激怒は激しい怒り、激情は激しい感情、激闘は激しい闘い、激減は激しく減ることだし、「激愛」も激しい愛ということで理解できない造語ではない。しかし「激白」というのは激しい告白ということなのだろうが、実に奇妙な造語である。

 激しい怒り、激しい闘い、激しい愛というものは存在する。しかし、激しい告白というのは何なのか。「私、本当は水虫なんです」というのが告白なら、「ぼくは実はハゲで、カツラをかぶっていたんです」というのは激白になるのだろうか。確かに、秘密を告白するときには、感情が高ぶり、心が乱れることも多いだろう。しかし、それは告白しているときの心の状態であって、告白そのものが激しいわけではない。たとえば、「激しい恋」はあっても「激しい結婚」というのは存在しない。仮に周囲の反対を押し切って結婚した場合や、毎日夫婦ゲンカばかりしている結婚に対して「激婚」という造語を作ったとしても、正しい表現ではない。それは結婚にいたる過程や夫婦関係の状態が激しいだけであって、結婚そのものが激しいわけではないからである。同じように、「激白」という造語も誤った表現として排除すべきだといえよう。

 ところで過度の強調といえば、近頃やたらと「120パーセント」とか言う有名人が多い。もちろん、「当社の営業利益は前年比で120%」などという場合はかまわないのだが、ある事柄の確率というものは100%を越えることはない。昔、「絶対」という言葉はやたらと使うものではないと言われたことがある。絶対というのは確率が100%のことだが、よく考えれば、確率が100%と思えるようなことも、実際は95%ぐらいかもしれない。物事を合理的・理性的に考える人なら、軽々しく100%ということは口に出さないだろう。では、論理的にありえない120%などという言葉を使う人間は、どういう人なのだろうか。はっきりいえば、「軽薄」であろう。すなわち、物事を理性的・論理的ではなく感情的に考えやすい人間ということである。また、政治家や評論家などなら、「煽情(せんじょう)的」なタイプということもいえるだろう。そういえば、政治家で「20000%」とか言っているのがいた。政治家としてのレベルも「()して知るべし」である。

「気取り」から生じる奇妙な日本語
「VTR、セレブ」
 奇妙な日本語や、言葉の誤用は、過度の強調とともに「気取り」から生じることも多い。テレビ番組で毎日使われているVTRという言葉もそうだろう。最近はJRを始め英単語などの頭文字で構成された社名も多いし、DHA、OECD、BGM、CEO、VFXなどといった略語が溢れている。さらに日本語の「空気が読めない」をわざわざKYなどと略して話す若者がいるくらいだから、そうした略語を取り混ぜて日本語を話すことがかっこいいという意識があるのではないだろうか。しかし、VTRというのはvideo tape recorderの略であってビデオテープを録画再生する機械のことを意味し、ソフトのことではない。「ただいまご覧になりましたVTRは……」などとテレビ番組の司会者が言うのは、「きのう浜崎あゆみのCDプレーヤーを聴いてさ……」と言うのと同じようにおかしな表現なのである。しかも、業界では依然として録画・再生にテープを使用しているとしても、一般家庭はBDレコーダーの時代である。VTRなどというのはブラウン管テレビよりはるかに昔に(すた)れてしまった古臭い機器にすぎない。その古臭い機器の名前をテレビ番組でソフトの意味で誤用し、しかもそれをかっこいいと考えているらしいというのは、まさに「滑稽(こっけい)な気取り」としかいいようがないだろう。

 もう一つ、気取りによる言葉の誤用として「セレブ」がある。セレブというのはcelebrityのことで有名人を意味する。決して金持とか上流階級を意味する言葉ではない。確かに有名人には金持が多いが、金持のほとんどは有名人ではないわけで、完全な言葉の誤用である。しかし、なぜこんな誤用が生じたのか。昔、上流階級のことはハイソと言った。high societyのことである。だから、テレビで金持の婦人を紹介するときにも「ハイソの奥様」と言えばいいのだが、これではちょっと古臭い。そこで誰が言い出したのかは知らないが、「セレブの奥様」と間違った表現をするようになったのだろう。まあ、単なるアパートをマンション(大邸宅)と呼んで儲けてきた不動産会社もあるのだから、この程度の「気取り」はいいではないかと言う人もあるかもしれないが、不動産会社は売上げを上げるために行ったのであり、ビジネス上はそれなりのメリットもあったといえる。しかし、わざわざ言葉の誤用をしてまで「セレブ」を使い続ける意味が私にはわからない。やや古臭くても「ハイソ」か、あるいは別の言葉を用いるべきだろう。

「アーティスト」
 気取った妙な言葉といえば、歌手のことをいう「アーティスト」である。日本の歌手たちは、関係者のみならず自分たちも、歌手と言わずに「芸術家」と呼ぶのだから、おかしくてしかたがない。ピアニストだって、バイオリニストだって、ドラマーだって、自分たちのことをアーティストなんて言わない。それぞれの職業に誇りを持っているからである。日本の歌手たちは、自分たちの歌を歌うという職業を後ろめたく思っているのではないかとさえ考えてしまう。フランク・シナトラだってビング・クロスビーだってマイケル・ジャクソンだって、シンガーであることに誇りを持っていた偉大な歌手だった。日本の歌手たちも、アーティストなんて気取った言い方をせずに、自分は歌手であると堂々と言えばいいのである。

 ……と考えて来た私だが、実情は違うようであるということがわかってきた。日本の音楽界で使われるアーティストというのは「芸術家」のことではないようである。すなわち、artistではなく、フランス語のartiste(アルティスト)のことらしい。フランス語のartisteは芸術家や画家という意味とともに、歌手、演奏家、俳優、ダンサー、芸人などの芸能人一般を指すこともある。日本語で使われている「タレント」に近い意味でも用いられるということである。では、日本のポップス界はフランス語からこの言葉を直輸入したのかというと、おそらく違うと思う。というのも、世界最大のポップス市場は何といってもアメリカであり、英語圏でもartisteは外来語として使われていて、音楽雑誌などにも登場するというからである。ただ、artistは通常芸術家や画家を意味するのに対し、外来語のartisteは歌手や演奏家、ダンサーなどのタレントを指し、発音もティにアクセントを置いて「アーティースト」と言う。しかし、日本語では皆が芸術家を意味すると考えている「アーティスト」と表現するので、何を気取っているのかと反発する人たちも出てくるわけである。

 では、なぜ日本では歌手のことをわざわざこのような(まぎ)らわしい言葉で呼ぶようになったのか。確かに「気取り」ということもあるだろうが、歌手でないミュージシャンなどに対する配慮ということが主な理由だったのだと思う。歌のグループにはボーカル以外の演奏のみを担当するメンバーもいる。しかし、歌番組などで「きょうお集まりの歌手の皆さん」と言うと、それらの人たちは仲間はずれにされている感じがするかもしれない。しかし、アーティストと言えば、それらの演奏家やバックダンサーたちも含まれることになるのである。また、CDの売上げなどについて発表する場合なども、「歌手、演奏家」と記すよりもアーティストと表現したほうがスマートだろう。ただ、この言葉の意味についてははっきりと説明して、できれば英語式に「アーティースト」と発音し表記したほうがいいと思う。ほとんどの人は誤解しているのであるから。また、歌手が自分のことを言う場合は、やはりアーティストではなく歌手とはっきりと言ってほしい。artisteというのは俳優やダンサーや芸人も含めた広い概念であって、歌手が「私はアーティストです」と言うのは、「私はタレントです」というのと意味としてはほぼ同じことだからである。また、作曲も行うシンガーソングライターは「ミュージシャン」という言葉を使うほうがいいと思う。英語圏におけるartisteという言葉には作曲家は含まれないからである。

「ヴァ、ヴィ、ヴェ」
 これは言葉の誤用ではないし、昔から使われてきた片かなの表記の問題なのだが、私が嫌いなものがある。「ルイ・ヴィトン」などで使われる「ヴァ、ヴィ、ヴェ」といった表記である。「バ・ビ・ベ」という片かな表記と「ヴァ、ヴィ、ヴェ」はどう違うのだろうか。これらを区別して表記する場合、外国語の単語で、前者はBの発音で、後者はVの発音ということである。Vでは、下唇を上の歯で軽く噛んで発音するが、もちろん日本語ではこんな発音はしない。「ヴァ、ヴィ、ヴェ」と書いてあっても、「バ・ビ・ベ」と発音するのである。では、なんでこんな奇妙な表記をするのだろうか。やはり「気取り」だろう。そしてこうした表記は昔からあったのだが、最近はやたらと増えたような気がする。まあ「ルイ・ヴィトン」は高級ブランドだから気取って言うのもある程度許せるが、人名や国名なども「ヴァ、ヴィ、ヴェ」で書くのが最近多く見られる。たとえば、週刊誌の見出しで昔は「デビ夫人」と書いてあったのが「デヴィ夫人」になっているし、ベトナムをヴェトナムなどと書く人もいる。では、テレビはテレヴィ、ビデオはヴィデオと書くかというと、少なくともテレヴィと書いている文章は今まで見たことはない。また、このような表記を統一するなら、バイオレンス、バカンス、シェーバー、セーブ、オーバーなども、ヴァイオレンス、ヴァカンス、シェーヴァー(シェイヴァ)、セーヴ(セイヴ)、オーヴァー(オウヴァ)と書かなければならないはずである。

 そもそも日本語にはない発音を、無理やり片かなで表記しようということ自体が無意味だと思う。第一、BとVを区別するなら、HとFも区別しなければならないだろう。「フック(hook)」と「フットボール(football)」は同じ「フ」でも元の発音は別である。Fの発音はVと同じように、上の歯で下唇を軽く噛んで発音する。また、流しの「シンク(sink)」とシンクタンクの「シンク(think)」は同じ「シンク」でも発音が異なる。THの発音は歯と歯の間に舌を入れて発音しなければならないので、これを区別するなら「シンクタンク」は「スィンクタンク」とでも表記しなければならないし、「サンキュー」は「スァンキュー」とでも書かなければならない。さらに厳密にいえば、RとLの発音も違う。たとえば、フリーライターの「ライター」はwriterだし、タバコに火をつける「ライター」はlighterで、前者はR、後者はLの発音になる。したがって、作家の「ライター」は「ルァイター」とでも書かなければならなくなる。また、同じ「ア」でも、英語の発音には何種類もの「ア」が存在するので、原語の発音にこだわるなら、いくつもの「ア」の表記方法を考えなければならない。たとえば、bad(悪い)、bud(つぼみ)、bird(鳥)、bard(詩人)をカタカナで表記すると「バッド」「バッド」「バード」「バード」となるが、これを「ヴァ」と同じように発音により区別するなら、「バャッド」「バァッド」「ブァード」「バード」というように異なった表記にしなければならなくなる。こんな面倒で無意味なことをやろうと主張する人がいたら、よほどの変わり者だろう。

 要するに、「ヴ」という外来語の表記は、昔誰かが気まぐれで、日本語にはない発音で表現不可能のものを無理やり片かなで表そうとしたものである。ただ、なぜかこの表記はVの発音においてのみ実行され、Fやその他の日本語にはない発音については行われなかった。そして年月がたつにつれて、そうした奇妙な表記は少なくなっていたが、近年「気取りや」たちによって復活し、やたらと目につくようになってきたのである。しかし、できるものなら、私はこのような表記はなくなってほしいと考えている。

 そもそもこれらの表記の混乱の元には「外来語と、外国語の単語は本来別のものである」という基本的認識が欠けていることがあるのではないだろうか。外来語というのは、外国語の単語をその国の人間が発音しやすいように、その国ふうに変換して表記するものである。Caesarはイタリア語ではカエサルと発音するが、英語ではスペルは同じでもシーザーと、自分たち風に発音を全く変えてしまっている。そこには原語の発音を尊重するなどという気持は全くない。これもどうかとは思うが、日本人が日本語の発音にはない「ヴ」などという文字を多用するのはナンセンスである。仮に原語の発音に忠実に表現しようとして「オーバーコート」を「オウヴァコウトゥ」などと表記したとしても、最後の「トゥ」は本来無声音であって、有声音の「トゥ」しかない日本語では表現しようがない。そこまで元の発音にこだわるなら、overcoatと原語で表記すべきだろう(なぜそこまでこだわるのかはわからないが、やはり基本的には『気取り』によるものだろう)。

 ところで、片かなで「テゥ」「デゥ」というのをやや気取った感じで「トゥ」「ドゥ」と書くのも、私はあまり好きではない。俳優のピーター・オトゥールも、本当はピーター・オテゥールと書きたい。ティはトィとは書かないのだから、同じ「テ」を用いた表記のほうが自然だと思っているからである。しかし、最近はやたら「トゥ」の表記が多くなり、オトゥールと書くのが一般的なので、仕方なくそう表記している。

 そのほかにも最近気になる表記としては「ヒトラー」というのがある。以前は「ヒットラー」と言っていたし、別にヒットラーでかまわないのではないかというのが私の考えである。いや、原語では日本語と異なり「ヒ」にアクセントをおくため、むしろ発音としては「ヒットラー」に近い。それでも「ト」は厳密には無声音の「トゥ」であるから、原語とは全く違う発音になる。また、イスラムをイスラームとか表記する連中もいるが、「ヴェトナム」にしろ、「ヒトラー」にしろ「イスラーム」にしろ、“原語発音忠実表記マニア”たちが近頃闊歩(かっぽ)していて気持悪い。そんなに原語の発音にこだわるのなら、ヒトラー、じゃなくてヒットラーと同じ第二次世界大戦の指導者のローズベルトを「ルーズベルト」などと誤って表記することをやめるのが先決ではないだろうか。しかし、こんなことを言うと、気持悪い“原語発音忠実表記マニア”がニヤニヤしながら近づいてきて、こう言うかもしれない。「それなら『ロウズヴェルト』にしましょうよ」


 「ここがおかしい 日本」に戻る  「嫌いな日本語 ②」に進む
 このページのトップに戻る





SABOの推薦本