SABOの八つの世界   

             嫌いな日本語 ②
風水の真実ザ・有名人占星術映画・Jポップエッセイ私の映画企画私のマニフェスト八道州・七新都市構想ここがおかしい 日本人類の歴史を変える新哲学

HOME(トップページ)

メッセージ

私のプロフィール

メール・コピー等について

サイトマップ

SABOの東京名所写真

 「ここがおかしい 日本」に戻る  「嫌いな日本語 ①」に戻る
このページの目次
国や企業の意図で生まれた奇妙な日本語
  「いらっしゃいませ、こんにちは」
  「三菱東京UFJ」
  「ヤマノテセン」「気持ち」
  「看護師さん」「CA」「ニッポン」
  「セクハラ」「万引き」「振り込め詐欺」
奇妙な略語と発音
  「携帯」「コンプレックス」
  「カレシ」「クラブ」「トーデン」
「セレブのイケメンが号泣した」

国や企業の意図で生まれた奇妙な日本語
「いらっしゃいませ、こんにちは」
 近頃、コンビニやスーパーやファーストフードの店の店員の言葉が非常におかしい。よく言われるのが「1000円からお預かりします」の「から」だが、前に述べた過度の強調から生まれた奇妙な日本語とは逆に、言葉を曖昧(あいまい)にしてソフトな表現にしようとして出てきたおかしな日本語ではないかと思う。その根底には現代の若者の、他人との接触を恐れる心理があるのかもしれないが、まともな経営者なら、こうした誤った言葉づかいはマニュアルで禁止すべきだろう。しかし、その経営者自身が近頃はまともでなくなっているケースが多い。マニュアルで「いらっしゃいませ、こんにちは(こんばんは)」などという奇妙奇天烈(きてれつ)挨拶(あいさつ)をさせているからである。

 そもそも日本では、まともな店なら、客に対して決して「こんにちは」とか「こんばんは」などとは言わない。たとえ店の者と客が何十年来の知り合いであっても、必ず「いらっしゃいませ」である。例外的に、たとえば店の者と客が親友で、休日に一緒にゴルフや釣りに行く仲というなら「こんにちは」でも許されるかもしれない。また、客が小さな子供なら「こんにちは」でもいいだろう。しかし、そんな親友や子供に話しかけるような、なれなれしい挨拶を一般の客にさせ、しかも「いらっしゃいませ」と一緒にして、まるでカレーライスの上に刺身を載せたような珍妙な挨拶のマニュアルを作ったのだから、「ここの経営者は気でも狂ったのか」と思わざるを得ない。

 しかし、なぜこんな奇妙な挨拶のマニュアルが生まれたのか。ある経営コンサルタント会社が考えたとも言われるが、その元はアメリカなどでの店員の挨拶かもしれない。アメリカなどでは店員が客に「Hello」「Good morning」と挨拶することは普通にあるという。したがって、アメリカかぶれの軽薄な経営コンサルタントか何かが編み出したのではないかと思うが、常識のある経営者なら「それはおかしい」と一笑に付しただろう。しかし、そうした常識のないボンクラ経営者が多いことが証明されてしまったというのが、この「いらっしゃませ、こんにちは」事件である。しかし、経営者が店員に珍妙な挨拶をさせるのが趣味というのなら、いっそのこともっとマニアックな挨拶をさせたらどうだろう。メード喫茶のように、「お帰りなさいませ、ご主人様」と。

「三菱東京UFJ」
「三菱東京UFJ銀行」というのは、日本で最もみっともない社名といっていいだろう。まず、合併する前の三社の社名をそのままくっつけたということが大問題である。三井住友銀行や合併前の第一勧業銀行のように、二社の名前を付けたというのなら、まだ許せる。これは社名を結合したわけではないが、海外でもロールスロイスやヒューレット・パッカード、それにプロクター・アンド・ギャンブルのように、二人の創業者の名前をくっつけた社名というのはけっこうあるわけだし。ただ、ヒューレット・パッカードやプロクター・アンド・ギャンブルというのは長いので、通常はHPや P&Gと略すし、仮に創業者が三人で、その名前を入れるなら、当然それらの頭文字を並べた社名になるだろう。では、なんでこんなみっともない社名になってしまったのか。

 その理由について述べる前に、この銀行のライバルであるみずほ銀行の社名について触れておこう。「三菱東京UFJ銀行」が企業が合併して生まれた最低の社名なら、「みずほ銀行」というのは、読みやすく書きやすく、かつ日本的な情緒も感じさせる理想的な社名といえるだろう。もっとも、みずほ銀行では合併時における各銀行のシステムの統合が不完全で、のちにATMの大きなトラブルを引き起こしたりしたので、その点では決して誉められた合併とはいえなかったわけだが、あくまでも「社名」ということに関していえば、合併企業の新社名としては手本となる例といっていい(ただ、平仮名の社名は、文章の中に埋没(まいぼつ)して認識しにくい場合があるという欠点はある)。もし新会社の社名が「第一勧業富士銀行」とかになっていたら、私はこんな銀行には預金したくないと思っただろう。しかし、それでも「三菱東京UFJ銀行」よりはマシである。なにしろ、この銀行の新社名は、たんに元の三つの社名をくっつけたというだけでなく、漢字とアルファベットを混在させた社名という「二重のみっともなさ」を実現させたからである。

 そして、このみっともない社名が付けられた理由が、元のそれぞれの会社のメンツなのだから、話にならない。仮にこれが一般の会社だったら、新社名が顧客からみてどんな印象を持たれるか、顧客が社名を口にしたり書いたりするとき不便ではないかということを当然考える。だからどうしても三つの社名を残したかったら、「MTU銀行」といった、それぞれの頭文字を取った名前にしただろう。しかし、この銀行はそうではなかった。特に三菱はその名前を残したかったようである。彼らにとって、「お客様は神様」ではなく、「三菱様、大手銀行様」である自分たちが神様なのである。そしてマスコミも「大手銀行様」にはびびってまともな批判をしにくい。私のような、そのみっともなさを指摘してくれる「親切な人」はなかなかいないため、この日本最大の銀行は、世間に向かって恥をさらし続けるわけである。

「ヤマノテセン」「気持ち」
 企業が生み出した私の嫌いな日本語、というより読み方として、山手線を「ヤマノテ線」と読ませることがある。以前はこれを「ヤマテ線」と言っていた。ところが、かつての国鉄が、元は「ヤマノテ線」だからと読み方を変えたのである。別にヤマテだろうとヤマノテだろうとどちらでもいいではないか、たいした問題ではないだろうと考える人も多いと思う。しかし、私がこの「ヤマノテ線」に対して強い反発を感じるのは、当時の国鉄の置かれた経営状態というものが影響している。当時の国鉄は放漫経営などが原因で巨額の赤字を抱え、経営破綻(はたん)寸前だった。にもかかわらず、数百万円の費用をかけて「ヤマテ」を「ヤマノテ」に変えるという余計なことをしたのである。

 そもそも当時の国鉄の路線は、国鉄の所有であったとしても、道路や橋と同じように、国民の共有財産みたいなものといっていいだろう。その国民がヤマテ線と言っていたのだから、それでいいではないか。言葉というのはしばしば略して述べられるようになるものであり、ヤマノテがヤマテになったのは、自然な変化なのだから。それを放漫経営を行っている国鉄が傲慢(ごうまん)にも元に戻そうとし、余計な金を使ったのだから、私は「意地でもヤマノテ線などとは呼ばないぞ」と思ったし、今でもそれを実行している。

 ところで、なんで漢字で表現すると同じ「山手線」なのに、読み方を変えたら当時の金で数百万円もかかったのか疑問に思う人もいるだろう。当時、山手線の車両の標識には「山手」と書いてあった。ヤマテがヤマノテになってもそのままでいいだろうと思ったのだが、彼らはそれを「山手線」という標識にわざわざ変えたのである。何十兆円の借金があっても、殿様商売の国鉄だからこそできたことだろうが、考えてみると「山手線」と書いて「ヤマノテセン」と読ませるのはおかしくはないだろうか。確かに人名の場合は、武者小路を「ムシャノコウジ」、綾小路を「アヤノコウジ」と読ませたりするが、山手を「ヤマノテ」と読むことはない。「私は山の手に住んでいる」という場合は「山手に住んでいる」とは決して書かない。「幕内」は「マクウチ」と読み、「マクノウチ」と言うときは「幕の内」と書く。下に弁当を付けても「幕の内弁当」である。だから「ヤマノテセン」は「山の手線」でなければならないはずである。すなわち電車の標識も本来は「山手」から「山の手」に変えるべきだったといえよう。もっとも、旧国鉄がこうした表示の変更をいい加減にしてくれたおかげで、私も今でも堂々と「ヤマテセン」と呼べるわけである。もし「山の手線」の表記が一般的になっていたら、「ヤマテセン」は完全に間違いだといわれただろうから。(ただ、最近NHKの中継などでは、幕内力士をマクノウチと言うようになってきている。あまり意味のないことだと思うが、こちらは『伝統芸能』的スポーツの相撲界のことだから、公共交通機関と異なり、まだ許せると思う)

 ところで、これは漢字の読み方ではなく、送り仮名の問題なのだが、今では一般的になった「気持ち」の「ち」という送り仮名を付ける書き方が私は嫌いである。昔は「気持」と書くのが一般的で、ワープロで変換しても「気持」としか表示されなかった。それがいつのまにか誰もが「気持ち」と書くようになってしまったのである。この「ち」というのは、なんだかズボンからはみ出したシャツの(すそ)みたいで気持悪い。作家の吉行淳之介も同じようなことを書いていたそうだが、彼は故人だし、現在私の知っている範囲では、「気持」と書いているのはイタリア在住の塩野七生(ななみ)さんと、『聞く力』がベストセラーにっなった阿川佐和子さんぐらいだろうか。

 言葉というのは、話す場合にしろ、書く場合にしろ、簡略化していくというのが一般的である。人間はものぐさだから、「自動車」は「車」になり、「携帯電話」は「携帯」になり、「スーパーマーケット」は「スーパー」になり、「木村拓哉」は「キムタク」になる。また、「インターネット」は「ネット」になり、「ウェブサイト」は「サイト」になり、「ウェブログ」は「ブログ」にり、「スマートフォン」は「スマホ」になる。では、なぜ「気持」はわざわざ「ち」を付けて長く書くようになったのだろうか。これは私の推測にすぎないが、店のレジで使われる「1000円からお預かりします」の「から」や、店員が使う「ご注文のほうをお伺いします」の「ほう」と似たような心理が働いているのではないだろうか。この「から」や「ほう」は、過剰な「優しさ」を求める若者たちが言葉を和らげる効果を期待して使っているのだろうが、文法的に間違いだからしばしばやり玉にあげられる。しかし、「気持ち」や「金持ち」という書き方は「気持」や「金持」よりソフトな印象を与えるが、表記としては間違いではない。そこで、表面的な「優しさ」が過剰に求められている偽善的な今の社会において、マスコミにまで(またた)()に広まってしまったのだろう。しかし、「ガンコ」と言われようと、私は今後も「気持」と書き続けるつもりである。

「看護師さん」「CA」「ニッポン」
 以前から一般の人々に親しまれてきた職業の呼称を国や企業が勝手に変えたものとして「看護師」「CA(キャビンアテンダント)」などがある。単なる資格や職種を表す言葉としてならかまわないが、その職業の人を呼ぶ言葉としては無機的で冷たく、嫌な言葉である。たとえば、調理師というのは調理をする人の資格や職種だが、その人を呼ぶときに「コックさん」「板前さん」とは言っても、「調理師さん」とはまず言わない。医師を呼ぶときは普通「先生」と言うが、その人のことを「お医者さん」とは言っても、「医師さん」とは決して呼ばない。また、警察官を呼ぶときも「おまわりさん」、女性の警察官の場合は「婦警さん」であって、「警察官さん」とは言わないだろう。「コックさん」「お医者さん」「おまわりさん」「看護婦さん」というのは、その職業の人を呼ぶときに、単なる無機的な資格を表した言葉ではなく、その人間に対する親しみや尊敬のこもった温かい言葉であるといえる。それに対し「調理師さん」「医師さん」「警察官さん」そして「看護師さん」というのは、日常では使わない、使うべきではない言葉といえよう。(ただし、男性看護師の場合は『看護師さん』でもいい。ただ、日本では、女性の患者が男性看護師に体を見られたりすることをいやがるため、ほとんどいないのが現状だが)

 看護婦と同様に、「スチュワーデス」というのも、昔から女性の憧れの職業の一つとして人々に親しまれてきた呼称である。ところが近年は、「キャビンアテンダント」とか、略して「CA」とか、つまらない言葉に変わってしまった。それにこれは和製英語であって、「フライトアテンダント」というのが正しい。しかし、これを「FA」にしたところでその無機的な味気なさは変わらない。仮に昔のテレビドラマの『スチュワーデス物語』が『CA物語』というタイトルだったら、多くの人はあまり見たいとは思わないだろう。客室乗務員も、「CAさん」などと呼ばれるより「スチュワーデスさん」と呼ばれたいのではないだろうか。アメリカの航空会社がスチュワーデスからフライトアテンダントに呼称を変えたのは、男女を問わずにその職業を表す言葉に変えたためというが、一般的な呼称としては、やはりスチュワーデスのほうが望ましいと思う。男性の客室乗務員を表すスチュワードという言葉もかっこよく響く。ただ、幸い、日本ではCAなどという呼称は一般には普及せず、スチュワーデスと呼ぶ人が多い。航空会社もこのような一般人の「良識」に配慮して、この言葉を復活させるべきではないだろうか。

 ところで、このメインメニューのタイトルの「ここがおかしい 日本」の「日本」は「ニホン」と読む。決して「ニッポン」ではない。実際、国立国語研究所が以前、日本人が話し言葉で「日本」を何と発音するかを分析したところ、98%のケースで「ニホン」と言っていたという。確かに私たちが会話するとき、「日本」「日本人」「日本語」はたいてい「ニホン」「ニホンジン」「ニホンゴ」と言う。スポーツで日本と外国の選手が対決するときなど、気持が高ぶって「ニッポン」「ニッポンジン」などと強調した言い方をすることもないではないが。ところが、最近のテレビでは、アナウンサーや司会者などがほとんど「ニッポン」としか発音しなくなっている。これはいったいどういうことだろうか。

  政府の見解では、日本の読みは「ニホン」でも「ニッポン」でもどちらでもいいということだが、以前「ニッポン」に統一するという間違った情報が出たこともあった(民主党政権のことだから、一度決定したことをすぐに覆した可能性もある)。間違った情報が少し出たぐらいでテレビ局が漢字の読み方を統一してしまうなどということがあるかとも思うが、日本の放送会社の番組の中で使われる言葉に対する反応ということを考慮すれば、考えられないことではない。バラエティ番組などでタレントがでたらめな言葉を使っていることには頓着(とんちゃく)しない彼らが、番組中の言葉に対する「強者」の意向に対しては病的なほど気を使う。彼らにとっての「強者」とは、政府関係者やスポンサーや圧力団体、それに中国や南北朝鮮などの傲慢(ごうまん)な外国である。いわゆる放送禁止用語を圧力団体の意向で無批判に増やしてきたこともそうだが、かつて北朝鮮のことを、この「ならず者国家」の圧力に屈して「朝鮮民主主義人民共和国」と正式な名称で(かたく)なに呼び続けてきたことにも、それは表れている。いずれにしても、ほとんどの日本人が通常「ニホン」と発音しているのに、テレビの出演者が「ニッポン」「ニッポン」と申し合わせたように(というより申し合わせているのだろうが)話しているのは異様である。特に強調して述べたい場合は「ニッポン」でもいいだろうが、それ以外は「ニホン」と言うのが自然だろう。

「セクハラ」「万引き」「振り込め詐欺」
 これは私が嫌いな日本語というより、言葉の使い方が不適切なため、いろいろと不都合が生じていると思われる言葉である。「セクハラ」というのは、「セクシュアルハラスメント」の略で、職場などでの性的ないやがらせのことをいう。しかし、どうもこの言葉の使用法はおかしい。同じ「性的いやがらせ」でも、この言葉の意味する行為の範囲があまりにも広すぎるのである。軽いほうでは、男性が職場で机の上に女性の水着の写真を飾ってもセクハラ、男性が女性の髪形を誉めてもセクハラになることもあるという。その一方で、レイプに相当するような重大な犯罪でもセクハラという言葉がしばしば使われる。これを「経済的犯罪」にたとえてみれば、道で十円玉を拾って交番に届けなかった行為も(もし届けられても交番も困るだろうが)、銀行強盗でも、巨額詐欺事件でも、同じ「エコクラ(=エコノミッククライム)」と呼んで一緒にするようなものである。

 セクハラという言葉がこのような使い方をされると、職場でのきわめて些細(ささい)な行為が、何かずいぶんと悪いことをしたように聞こえるし、逆にレイプのような重大な犯罪でも軽い印象しか与えないという問題が生じてくる。したがって、どうしてもこのような広範囲な行為に対してセクハラという同じ言葉を使いたいのなら、「軽度セクハラ」「重度セクハラ」というように、行為の深刻さに応じて段階を付けた表現を用いるべきではないだろうか。

 「万引き」というのは、店で売っている品物を営業中に客を装って盗むことをいう。よく店の中に「万引きは犯罪です」と書いた紙が貼ってあるが、万引きは窃盗なのだから犯罪なのはあたりまえである。しかし、「盗みは犯罪です」とは言われないのに「万引きは犯罪です」と書かれるということは、万引きは盗み一般より道徳的にかなり軽い行為、犯罪というほどのものではない行為という認識を持っている人たちが多いということだろう。しかし、泥棒に入られて倒産した店というのはほとんどないだろうが、万引きによりつぶれた書店などは数多くある。万引きの一回の被害額はさほど大きくなくても、日常的に数多く行われるため、その総額は多額となり、店に致命的な打撃を与えるのである。

 私は、万引きを減らすためには、万引きという言葉を「死語」にすべきではないかと思う。少なくとも、店やマスコミや官公庁などでは、「万引き」とは言わずに「盗み」「窃盗」と言うべきだろう。一般の窃盗と区別する場合は、テレビのニュースや新聞で、「店内窃盗、いわゆる万引きは……」と最初だけ述べて、その後は万引きという言葉は使わずに、「盗み」とか「商品を盗んだ犯人は……」といった表現で統一する。そのことにより「店内窃盗」に対する「犯罪としての意識」を社会に広げ、結果的にその数を減らすことができるのではないだろうか。

 ところで、近年増えているのが、被害者の家に電話をかけて、被害者の子供などになりすまし、現金をだまし取るという犯罪である。最初の頃は、犯人が電話で「オレオレ」などと言うことが多かったので「オレオレ詐欺」などと名付けていたが、それが「振り込め詐欺」に変わった。ところが、犯人が被害者に銀行などに金を振り込むことを要求せず、直接金を受取りにくることもあるので、一般の人たちにこの犯罪の新たな名称を募集した結果、「母さん、助けて詐欺」などという奇妙な名称になってしまったしだいである。しかし、犯罪によっては「父さん、助けて」と犯人は言うかもしれないので、新聞などにはたんに「助けて詐欺」とか書いてある。しかし、犯人が「助けて」という言葉を使用するとはかぎらないし、こうした名称が犯罪抑止に貢献するとはあまり思えない。

 私は「オレオレ詐欺」にしろ「振り込め詐欺」にしろ「助けて詐欺」にしろ、少々考えすぎなのではないかと思う。この詐欺の本質は、犯人が被害者の子供などになりすましていることである。したがって「なりすまし詐欺」か、少々長くなるが「なりすまし電話詐欺」というのが妥当なのではないだろうか。この呼び方を広めたほうが、少なくとも「助けて詐欺」の名称を人々に周知させるより、おかしな電話がかかってきたときに「詐欺かな」とピンとくる可能性が高いと思う。警察官が戸別訪問をするときに、高齢者の世帯を中心に、「その電話、もしかして『なりすまし電話詐欺?』」と書いたステッカーを配り、「電話や、そのそばに貼っておいてください」と言うのも効果的だと思う。

奇妙な略語と発音
「携帯」「コンプレックス」
 近頃、略語というのがやたらと多いが、よく考えてみると、おかしな略語が少なくない。たとえば携帯電話のことを携帯と略すが、携帯電話の本質は電話であって、携帯というのはその電話が持つ特性にすぎない。「携帯」だけだと携帯ラジオかもしれないし、携帯灰皿かもしれない。まあ、たいていは電話のことを指すから問題ないわけだが、本来なら東京大学を東大と略すように、携電と略すべきだろう。あるいは、portable telephoneの頭文字を取ってPTと言うべきか。もっとも、頭文字を取った略語はわかりにくい場合が多いので、personal computerのことを「パソコン」、word processorのことを「ワープロ」、remote controlのことを「リモコン」と言うように、「ポーテレ」と呼ぶのもいいかもしれない。(ただ、最近コンパクトデジタルカメラのことを『コンデジ』と呼ぶのは好きじゃない。今では、特にコンパクトカメラはデジタルであるのがあたりまえなのだから、『コンカメ』と言うべきだろう)

 しかし、これに関連していえば、コンビニやスーパーという外来語の略語もおかしい。前者はconvenience store、後者はsupermarketの略だが、コンビニは便利を意味するconvenienceの略語にすぎず、「店」という意味は全くない。スーパーも同様である。では頭文字を取った略語にすると、コンビニはCSになってCS放送と紛らわしいし、スーパーはSMになってしまい、性的な意味を持つ別の略語を連想する人もいるだろうから、なおさらまずい。まあ、convenience storeは「コンスト」にしてもいいのではないかと思うが、supermarketを「スーマー」と呼ぶのはちょっとおかしい気もする。

 ところで、cinema complexは「シネコン」と略されるが、この「コンプレックス」は複合体とか集合体を意味する。しかし、心理学で使われると、心のしこりや強迫観念の意味になる。では、よく「劣等感」の意味で使われるコンプレックスとは何なのか。このコンプレックスはinferiority complexの略だが、この略語ははっきりいっておかしい。というのも、劣等感と全く逆の意味の優越感はsuperiority complexであり、同じ「コンプレックス」だからである。すなわち、「コンプレックス」というのは、日本語の「劣等感」「優劣感」の「感」の部分であり、肝心の「劣等」といった意味がない。だからそれを略語で表現したいのなら、「インコン」とでも言うべきだろうが、なんか淫行と発音が似ていて、響きとしては好まれない気がする。一番いいのは、「劣等感」と日本語で言うことだろうが、「劣等」という言葉はやや生々しいので、オブラートに包んで言いたいという心理が、このようなおかしな「和製英語」を生み出したのだろう。ちなみに、よく使われる「マザコン」という言葉の「コン」も同じcomplexを意味するが、これは本当の和製英語であって、外人には通じない。

 ところで、いま「外人」という言葉を使ったが、この言葉に関して排他的で冷たい言葉だと言う外人がいる。しかし、それは日本語についてよく知らないからであって、「外人」という言葉には、アジア人などが含まれる外国人という言葉と異なり、欧米人に対する憧れとか尊敬のニュアンスが含まれているのである。かつての日本人にとって、欧米は先進国であり、日本より進んだ文明・文化を持っていると考えられていた。また、欧米人の容姿も、日本人と異なり、背が高く、顔は彫りが深く、金髪は美しく、カッコイイというイメージであった。確かに、外人という言葉は、日本人との間に高い壁をイメージさせるが、その壁は自分たちよりずっと優れた者との間にある壁だったのである。「外人」という言葉を誤解している欧米人に対しては、そうしたことをはっきりと説明する必要があるだろう。

「カレシ」「クラブ」「トーデン」
 これは言葉自体がおかしいのではなく、発音が日本語として、というより標準語として間違っている例である。「彼氏」や「クラブ」は「カ」や「ク」にアクセントを置いて発音するのが正しい標準語の発音だが、これを平坦に発音する妙な言い方がはやり、現在では定着してしまった。この平坦な発音は東北の方言に似ているため、私は方言が標準語に入り込んでしまったのではないかと思っていたが、やはりそうらしい。ただ、東北の方言というより、茨城や栃木などの出身の人が東京へやってきて、なまりの混じった言葉を話しているなかで、それを聞いた東京人が逆に新鮮に感じて取り入れたという説もある(東京生まれの生粋(きっすい)の東京人かは不明だが)。昔は地方から東京にやって来た人たち、特に東北などの人たちは方言の発音が恥ずかしいと感じ、一生懸命標準語を話そうとしたものだが、このケースは逆に方言が標準語を浸食したということで、「方言の逆襲」といえるかもしれない。

 しかし、私はこのような例を認めるわけにはいかない。確かに、ケンカをしているみたいだけど標準語にはない温かさがある大阪弁、ホンワカとした京都弁、朴訥(ぼくとつ)な人柄を表すような東北弁……いずれも方言のよさがあることは認める。しかし、それと、標準語に方言が入り込むことを許容するかどうかということは別問題である。仮に、大阪弁、京都弁、熊本弁などの方言が数多く標準語に入り込んだりしたら、日本語はメチャクチャになってしまう。やはり標準語と方言との間にはきっちりと線を引き、「標準語の(とりで)」は守らなければならない。

 ところで、最近テレビで天気予報などを聞いていると、四月を「シ」にアクセントを置いて発音する人がままいる。「クラブ」などとは逆に、標準語では平坦に発音する言葉を、最初の音を高く発音するのである。これは、解説者などが地方の出身で、方言がつい出てしまったのか、あるいは緊張のためにおかしな発音になってしまったのかはわからない。ただ、誤った発音をする人がかなり多いので気になる。また、東日本大震災以来、非難の集中砲火を浴びている東電についてテレビで解説するとき、やはり同じように「トーデン」のトにアクセントを置いて発音する人が目立つ。これは方言が出てしまったというより、東電を非難しようと気分が高ぶって思わずそういう表現になってしまったというのが本当のところだろう。確かに、正しい平坦な発音で「東電」というと、冷静に議論しようという気分になり、激しい感情的な議論を演出したいテレビとしては都合(つごう)が悪いのかもしれない。


 内館牧子さんの『カネを積まれても使いたくない日本語』(朝日新書)という本に、「イケメン」という言葉について次のように書いてあった。

「私はカネを積まれなくても、この言葉は使っている。だが、友人の一人に、
『カンに障る、その言葉。やめて』
 と言われた。まさに言葉の嫌悪感は個々人によると思ったが、そう言われてから、確かに品のない言葉だなァと気づいた」

 これを読んで、私も何気なく使っていたこの言葉がおかしいのではないかと感じるようになった。いや、ルックスのいい男性に対して、たまにこのようなくだけた俗語を使うのはかまわないと思う。しかし、新聞のテレビ欄やバラエティ番組を見てると、ルックスのいい男性に対する表現は、ほぼ100%「イケメン」である。「ハンサム、美男、美男子、二枚目、色男、いい男、男前」といった通常、今まで使われてきた言葉は、ほとんど駆逐(くちく)されてしまっている。

 また、登場人物が涙ぐんだりした場合のテレビ欄の説明も、番組冒頭の内容紹介でも、たいてい「号泣(ごうきゅう)」と表現される。号泣というのは、大声をあげて泣くことであり、どちらかといえば文語であって、かつては日常会話では、「大泣きした」などと言うのが普通だった。しかし、いつ頃からか、バラエティ番組では、出演者がしくしく泣いても「号泣」とか「大号泣」と表現するようになり、怒ると「激怒」「大激怒」と言うようになった。

 新聞のテレビ欄に「セレブのイケメンが号泣した」などという表現が毎日のように見られる。この短い文章には、言葉の誤用、品のない言葉、言語表現の画一化、誇張とウソといった日本語を堕落させる要素が目一杯つまっている。では、なぜ放送関係者はこうした表現を使うのか。理由は簡単である。彼らにとって「視聴率を上げることがすべて」だからである。視聴率を上げるためには、とにかく画一的で刺激的な目立つ誇張した言葉を使うのが一番というわけだろう。それによって日本語がどんなに毀損(きそん)されようが、「そんなことは知ったこっちゃない」というわけである。

 このような表現が毎日行われると、日本語に対して猛烈な破壊力を発揮する。これらを毎日見ている子供たちは、もはやルックスのいい男性に対して「イケメン」以外の言葉を使わなくなるだろう。親が「ハンサム、美男、美男子、二枚目、色男、いい男、男前」などと言っても、「何、それ?」というわけである。そして子供にかぎらず、日本人の日本語における表現力はどんどん退化してゆく。

 このようなマスコミによる日本語の破壊を少しでも防ぐためには、我々がなるべくそのような言葉を使わないように心がけるしかない。思わず「イケメン」と言いたくなっても、ほかの言葉に置きかえるように努力することである。しかし、何よりも、放送会社自身が「浄化作用」を発揮して「正しく美しい日本語を守る」行動にでなければ根本的には解決しない。もしそれが望めないならば、公的機関の勧告という形をとってでも、これらの日本語破壊行為に歯止めをかける必要があるだろう。


 「ここがおかしい 日本」に戻る  「嫌いな日本語 ①」に戻る
 このページのトップに戻る





SABOの推薦本