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このページの目次
 『テレビ局の裏側』
 小説風『もしもSABOが放送会社の社長になったなら(前編)』
 小説風『もしもSABOが放送会社の社長になったなら(後編)』
 テレビ番組の下請けプロはゼネストを決行せよ

『テレビ局の裏側』
 新潮新書の『テレビ局の裏側』(中川勇樹著)という本を読んだ。著者の中川氏はフリーのテレビディレクターで、報道・情報番組・バラエティなどを幅広く手がけてきたテレビ業界の裏側を知悉(ちしつ)している人物である。この本は、形式的には、一般の人たちが知らないテレビ業界の内部事情をわかりやすく説明したもので、いわゆる「内部告発本」という形はとっていない。しかし、放送業界の内情を包み隠さず明かしているため、結果的には、この本の大半は、現在のテレビ界の数々の問題点を指摘した告発本的な内容になっている。

 確かに今までも、放送業界の様々な問題は、書籍や雑誌などでも指摘されてきた。テレビ番組のいわゆる「やらせ」の問題、テレビ局の正社員と番組の下請(したう)けプロダクションの社員などとの給与のとてつもない格差、そして視聴率至上主義によるテレビ番組の質の低下、等々。しかし、それらはほとんどが評論家や業界のOBが批評したり、あるいは外部の人間が内部の人たちに取材して得た情報を元にしたりしたものだった。しかし、この本は、業界内部の人間、しかも現役のディレクターが書いたということで、たいへん説得力があるし、質・量ともに充実したものである。また、評論家や学者の書いた堅苦しい本ではないため、読み物としても面白い。

 私としては、業界の内部の人がこのような本を(あらわ)した勇気を(たた)えたいし、自分が愛するテレビ業界を何とかしたいという著者の気持にも大いに共鳴できる。テレビ業界の中のほかの良心的な関係者も同様であろう。「自分たちの仲間がよくここまで書いてくれた」という感想を持つ人も多いのではないだろうか。

 では、このような本が出版されたことにより、テレビ業界の問題は少しは改善に向かうだろうか。残念ながら、その可能性はきわめて少ないといわざるをえない。今も述べたように、今までも本や週刊誌などでテレビ業界の暗部については幾度(いくど)となく指摘されてきた。しかし、その結果、それらの問題が改善されたということは聞いたことがない。特にテレビ局の正社員と、下請けの制作会社の社員や契約スタッフとの給与格差などは、ほとんど(ちぢ)まっていないであろう。これはなぜだろうか。

 それには様々な理由があるだろうが、根本的な原因は、「日本の新聞とテレビは、日本の“第一権力”であるから」ということではないだろうか。たとえば、読売・朝日・毎日などの大新聞社が販売店に対して新聞の押し売りをしている、いわゆる「押し(がみ)」について週刊新潮が特集を組んで報道をした。これは新潮社のスクープということではなくて、以前から何度も指摘されていた「公然の秘密」を、数々の関係者の証言や証拠写真により明らかにしたというにすぎない。また、押し紙の存在は最高裁も認めている。それにもかかわらず大新聞はその存在を認めず、読売新聞は厚顔(こうがん)無恥(むち)にも、新潮社を名誉毀損(きそん)で訴えているのである。

「黒を白とでもいいくるめられる日本の大新聞は、スターリンか金正日か」といいたくなる。しかし、こうしたことはテレビ業界も同じである。「やらせ」のような具体的で明白な不祥事(ふしょうじ)が明らかになると、放送会社は反省のポーズはとるが、テレビ局の社員と下請けプロの社員などとの給与格差などについては、どのような批判があっても「無視」を(つらぬ)いている。

「だって評論家たちや週刊誌が我々を批判したところで、彼らは『雑魚(ざこ)』にすぎない。実際、『そんな反社会的行為を行っているテレビ局の放送している番組なんか、みんなで見るのはよそう』などという運動は全くおきない。我が社の大株主の新聞社はもちろん我々の味方だし、政治家たちだってテレビ番組に出演して顏を売ることばかりに熱心で、我々におべっかを使っている。そもそも彼らは政治屋だから、どんな社会的不正があろうと、選挙に有利にならないようなことには無関心である。もちろん、一般の会社が下請けいじめや差別などをしたら、我々は毅然(きぜん)として報道し、そうした社会悪は許さない。しかし、我々の業界は別である。なぜなら、我々は第一権力であって、特権階級でもあるからだ」

 まあ、こうは言わないだろうが、これが彼らの本音(ほんね)に近いところだろう。では、これらの放送業界の恥部は、処置なしなのであろうか。もしも放送会社の社長に、現在の放送界の大改革をしてやろうという正義感と勇気を持った人間がなったなら、放送界は(よみがえ)るだろうか。そこで、もし私が(ぼう)放送会社の社長に就任したらどうなるかということを、次に小説風に描いてみようと思う。まあ、一種のシミュレーションみたいなものと考えてもらいたい。タイトルは『もしもSABOが放送会社の社長になったなら』である。

      
               フジテレビ                       日本テレビ

小説風『もしもSABOが放送会社の社長になったなら(前編)』
 某放送会社の社長に就任した私は、最初の取締役会で次のように言う。

「皆さんもご存じのように、我々の業界は多方面から様々な批判にさらされている。視聴率至上(しじょう)主義による番組の質の低下や、いわゆる『やらせ』などの問題、放送局の社員と下請けの制作会社の社員などとの給与や待遇の大きな格差など。しかし、これらの問題は一向に改善されない。われわれマスコミ、特に新聞とテレビは今や第一権力といわれ、社会に対するとてつもない影響力を持っている。だからこそ、その社会的責任もきわめて大きい。報道番組で社会の悪を糾弾(きゅうだん)する我々は、道徳的にも社会の模範となるような行動をとるべきだ。しかし、実際は一般の会社以上に不道徳で腐敗しているような部分が少なくなく、偏向した報道も多々あるというのが現状である。これほど恥ずかしいことはない。私はこれから我が社の大改革を断行するつもりである。その手始めに、下請けの制作会社に渡す制作費を大幅にアップしようと思う。これにより番組の質も向上し、番組制作会社に優れた人材が集まりにくくなっているという問題も改善される。また、低制作費による無理な番組制作もなくなり、いわゆる『やらせ』などが生じることも大幅に少なくなるだろう」

 この私の言葉に対し、重役たちはしばらく沈黙している。どうやら困った人間が社長になってしまったというのが彼らの大半の共通する認識のようである。一人の重役がようやく口を開く。

「確かに、社長のおっしゃるとおり、この業界には多くの問題が存在します。しかし、それは放送業界にかぎったことではありません。大会社の正社員と下請けの中小企業の社員との給与の格差というのはどの業界にもあることであり……確かにこの業界の格差が(いちじる)しいことは否定できませんが、まあ、それは長年の慣行でもあり、急に変えるというわけにはいかないというのが現実です。確かに社長のおっしゃる理想論は立派だと思います。しかし、理想だけでは現実の企業経営はできません。現在、放送業界のおかれている厳しい状況は社長もご存じでしょう。不況により我が社の広告収入も大幅に減少し、その一方、地上波のデジタル化に伴う巨額の設備投資を()いられています。そうした状況の中で、下請けの番組制作プロに渡す制作費を大幅に増やすなどというのは、失礼ながら、はっきりいって『狂気の沙汰(さた)』です」

 この重役の発言をきっかけに、ほかの重役たちも次々に社長に対する反対意見を述べる。重役たちの一部には、社長の改革に賛同する人間もいるのだが、あくまでも少数派であって、この場面で社長支持を表明する勇気はない。しかし、私はこれらの反対は予想していたことなので、次のように説明する。

「もちろん私も、放送業界がおかれている厳しい現状はよくわかっている。しかし、こうした苦境は、むしろ大改革のチャンスともいえる。皆さんは『我が社は大変な危機だ』といいながら、一般の企業が持っているような危機意識に乏しいのではないか。危機なら大改革を敢行(かんこう)すべきなのに、ワイドショーや報道番組の司会のタレントを、出演料の必要ないアナウンサーに代える程度のコスト削減をするだけでお茶を(にご)そうとしている。民主党が行った“仕分け”は日本経済を疲弊(ひへい)させる愚劣な政策だが、いま我が社にこそ徹底した“仕分け”が必要といえる。たとえば、番組制作費から広告代理店が受け取る手数料は10%台から25%程度ということだが、これは高すぎないか。以前から批判されていることだが、放送局の広告代理店を電通と博報堂が独占していることがその原因であろう。広告代理店の新規参入を(うなが)して競争原理を導入すべきである」

 私が放送業界の「タブー」に触れ始めたことで、重役たちの顔がこわばってくる。しかし、私はそんなことはかまわず、さらに続ける。

「また、アルバイトでもできるような仕事をしている社員でも、部長待遇で大変な高給を受け取っているケースもあるという。当然、社員の人員整理や給与の見直しも行わなければならない。私も率先して、社長の給与を5割カットするつもりだ。さらに、報道部門では、臨時ニュースの発生に備えて多数の社員を24時間体制で待機させていて、これに莫大(ばくだい)な費用がかかっている。これも、ほかの放送会社と共同で報道を専門に扱う別会社を設立するなどして、大幅なコスト削減を実施しなければならない」

 重役たちは黙っているが、心の中ではこう思っている。
「この社長は危険だ。なんとかしなければ」
 私はそうしたことも承知した上でさらに発言を続ける。

「もちろん、単にコスト削減をすればいいということではない。今まで広告代理店などに払いすぎていた分などを番組制作費に回して番組の質の向上をはかることも必要だ。また、様々な方策をめぐらして利益の増大を実現する必要もある。現在、我が社の製作している映画は、興行的に国内では健闘しているが、脚本などの質が劣るため、海外ではほとんど利益を得られていない。世界に通用するような映画を本気で製作する必要がある。また、これは私の個人的な専門分野でもあるが、現在のシネコンは経営上の欠陥に満ちているため、日本映画産業の復興は大きな壁に突き当たっている。私が考案した革新的なシネコンのプランを採用した新会社を設立し、我が社も経営参画(さんかく)すべきと考えている。さらにこれは長期的な課題だが、私のかねてからの持論である『日本のハリウッド』の建設についても、国に積極的に働きかけて実現にもっていきたい。現在、テレビ番組はほとんどが地価の高い東京で制作されているため、番組制作のコスト高の要因になっている。社屋やスタジオを新都市に移転することにより様々なコストの削減をはかり、大地震などに対する危機管理も実現し、さらに新都市にオープンするテーマパークに経営参画することにより新たな収入源を得ることを考えている」

 重役たちは、私のプランを黙って聞いている。「この人の言うことには付いていけない」というのが本音だろう。

「ところで、私の改革の実行を我が社の社員にも徹底するにはどうしたらいいかと考えたのだが、これには二つの具体的方法が有効と考えた。一つは、改革のスローガンを社内に広めることだ。そのスローガンとは『視聴率第一から視聴者第一へ』だ。いかがだろう」

 私が「いかがだろう」と問いかけたことにより、重役たちは我に返ったようにおたがい顏を見合わせた。一人の重役が皮肉まじりに言う。

「なんだか民主党の『コンクリートから人へ』みたいですね」

「これはあんな馬鹿げた偽善的なスローガンとは違う。初心に帰って本当に視聴者に喜ばれるような番組を制作しようということだ。そのためには番組の質を向上させるということはもちろんだが、視聴者がいやがるようなことは極力避けることも必要だ。いわゆる『山場(やまば)CM』『フライング』といったテクニックはやめさせ、テロップをむやみに挿入することも禁止する。そもそもタレントはしゃべりのプロなのだから、それにいちいちテロップを入れるというのは彼らに対する侮辱だ。第一、それを徹底したらテレビドラマのセリフにもすべてテロップを入れなければならなくなる」

 ここで、社長の改革に賛同する少数派の重役から思わず共感する笑いが漏れた。しかし、ほかの重役たちに(にら)まれて、あわてて笑いを引っ込める。

「あるアンケートでは、山場CMが不快という人は86%におよんだという。顧客が不快と感じることをわざわざやっているサービス業というのは、映画館とテレビぐらいのものだ」

 ここで一人の重役が疑問を(てい)する。
「しかし、どうでしょう。映画館はお客が入場料を払って見てますが、テレビの視聴者はタダで見ているわけですから、我々にとっての顧客はむしろスポンサーではないでしょうか」

「いや、違う。スポンサーの企業が売っている製品やサービスの価格には広告料が含まれている。視聴者は間接的にしろ、金を払ってテレビを見ているのだ。もちろん、スポンサーも顧客だが、第二義的な顧客と考えるべきだろう」

 私はさらに続ける。
「また、新聞のテレビ欄のバラエティー番組などの内容の紹介では、タレントがしくしく泣いても『号泣(ごうきゅう)』、ちょっとムッとしても『大激怒』といった誇大(こだい)な表現があふれている。不必要なテロップは誤字だらけだ。日本語を(まも)らなければならない立場にいる我々が、最も積極的に日本語を(こわ)しているといっても過言ではないだろう。さらに、番組の最後のほうで「番組はまだまだ続きます」とナレーションを入れながら、CMが入ったあとすぐに終わってしまう。平気で視聴者を(だま)すようなことをする。なぜそうなるかといえば、社員がなんとしても視聴率を上げなければならないという強迫観念に捕われているからだ。そうした強迫観念から自由になり、本当に質の高い番組づくりに専念してもらうためには、ある種の『ショック療法』が必要と考えた。それが私が考えた、私の実行しようとしている改革を社員に浸透させるための第二の方法、すなわち、これから一年間は社内で視聴率の話をすることを禁止するということだ」

 重役たちは、ポカンとした顏をしておたがい顔を見合わせている。一人の重役がおそるおそる口を開く。

「あの、それはどういうことでしょうか」

「社員が視聴率の話をしたら罰金一万円……とまではいわないが、社内で一切視聴率の話をすることは禁止するということだ」

 一人の重役が引きつった笑みを浮かべ、
「ご冗談を……」

「いや、冗談ではない。もちろんビデオリサーチには視聴率調査の依頼はするし、我々重役や一部の社員は各番組の視聴率の資料を見ることはできる。スポンサーにも、むろん知らせる。しかし、一般の社員は視聴率のことなど気にしないで番組づくりに打ち込めるように、一切視聴率の内容については教えない。ビデオリサーチにも、うちの局の番組の視聴率は公表しないように頼むつもりだ。そして、番組を制作している社員の評価は、あくまでも制作した番組の質で行う。外部に有識者と一般の視聴者による番組の評価委員会を作り、その評価のみを番組を制作している社員のボーナスの査定に反映するつもりだ。この場合、視聴率が30%だろうと3%だろうと関係ない」

 会議室に重苦しい沈黙が流れる。が、今まで発言しなかった重役の一人が、たまりかねたように口を開く。

「社長、私は正直言って、社長の視聴率を敵視するような考え方には到底賛成できません。確かに、視聴率至上主義には問題があります。しかし、我々の会社は公益法人ではありません。株式を上場している株式会社です。企業利益を追求し、そのために番組が高い視聴率を獲得することを求めるのは当然ではありませんか」

「私は何も視聴率を敵視しているわけではない。会社として企業利益を追求し、番組が高い視聴率を実現することを望む気持は私も全く変わりがない。しかし、利益至上主義の会社が長期にわたって高い利益をあげることが困難なように、視聴率ばかりを求めるのは、逆に視聴者のテレビ離れを誘発して視聴率にとって逆効果になるのではないだろうか。今までも利益至上主義のサラ金の会社などが不祥事(ふしょうじ)でつまずくということはしばしばあったし、現在のトヨタが大きな問題を起こしているのも、かつての顧客第一主義がいつのまにか利益至上主義に変わってしまっていたからではないか。その一方、利益の追求より優れた製品やサービスを顧客に提供することに情熱を傾けてきた会社は、長期にわたって安定した利益をあげている。これは映像ソフトでも同様だ。『七人の侍』や『千と千尋(ちひろ)の神隠し』が大ヒットしたのも、黒澤明監督や宮崎駿(はやお)監督が金儲けをしようと意図して作品を制作したからではない。優れた映画をつくることに情熱を傾け、その結果魅力的な映画ができたから、多くの観客が殺到して多大な利益をあげることができたのだ。我々の放送業界だってかつてはそうだったはずだ。番組制作の現場の人間はみな視聴率の話なんかしていなかった。面白いテレビ番組をつくることに情熱を注ぎ込み、そうしたできた番組を視聴者は夢中になって見ていたのだ。ここはひとつ我々も初心に帰ってみようではないか。一年間、視聴率のことを考えずに、魅力的で面白く優れた番組を制作することを社員に奨励(しょうれい)するのだ。その結果、案外平均視聴率は変わらないかもしれないし、逆にアップするということだってあるかもしれない。これはいわば壮大な実験なんだ」

 この私の言葉には、少数派の改革賛成派だけでなく、私に反対する重役たちの中にも感銘(かんめい)を受けた者がいるようだった。特にプロデューサーやディレクター出身の役員は、かつて自分たちが番組制作に情熱を傾けていたころを思い出し、心を動かされたらしい。しかし、一人の重役が次のように発言した。

「壮大な実験て、我が社はモルモットではありません。現在の我が社が置かれている厳しい状況は、そんな冒険的行為を許されるような環境にはないんです。もしもこれが失敗して、平均視聴率が大幅に下がるようなことがあったらどうするんですか」

「今回、私がこの会社の社長に就任したのは、内部出身や新聞社など関連会社の出身の社長ではできないような改革を行うことを期待されたからではないか。しかし、改革を行うには当然リスクが(ともな)う。リスクを(おか)すことを恐れていては改革などできないし、放送業界も我が社もじり貧になるばかりだ。あなたがたは今まで業界の官僚的ともいえるぬるま湯の体質に()かっていたから危機意識が乏しい。放送業界はこのままでは経営破綻(はたん)した日本航空の二の舞にならないともかぎらない。そうならないために、私が提案する大改革の案を、皆さんが率先して実行してもらいたい。これは社長命令だ。さっそく明日から、社内に貼ってある高視聴率を獲得した番組を記した紙を引きはがし、『視聴率第一から視聴者第一へ』のスローガンを書いた紙に替えてもらいたい」

小説風『もしもSABOが放送会社の社長になったなら(後編)」
 この取締役会議で私が話した内容は、(またた)く間に社内に広まった。社員たちの間には、大幅な人員整理がされるのではないかとか、給与がカットされるのではないかといった動揺が広まっていった。また、「あの社長は素人(しろうと)で、放送会社の経営のことなど、まるっきりわかっていない」とか、社内で視聴率の話をすることを禁止するといった指令に対しては、「頭がおかしい」と言う社員も少なくなかった。しかし、これらのことは私にとって「想定の範囲内」のことだった。激しい反発のない大改革など存在しない。そうでなけば、それは大改革の名に(あたい)しないということだ。

 しかし、私が新聞社のインタビューを受け、私の改革案が新聞に掲載されると、その動揺は業界全体にまで広まった。特に私が下請けの番組制作会社に渡す制作費を大幅に増加すると発言したことは、ほかの放送会社にも衝撃を与えたようだ。もしそんなことをされたら、自分たちの会社も連動して制作費を上げざるをえないだろう。それは自分たちの会社の経営を圧迫するし、望まない内部改革を実行せざるをえなくなるからである。

 さらに私はその後、文藝春秋社のインタビューを受けたが、ここではそれまで話さなかった改革案についても明らかにした。それは主として報道に関することであり、それまでのテレビや新聞の報道のタブーをことごとく(くつがえ)すような内容だった。これが月刊の文藝春秋に掲載されると、放送界はもちろん、新聞界や芸能プロ、さらには宗教界など各方面に戦慄(せんりつ)が走った。私が目指していたことが、単なる一つの放送会社の大改革に留まらず、「マスコミの革命」であることがわかってきたからだ。

 放送会社や新聞社などがある周辺の飲み屋などでは、この話題で持ちきりになっている。ある居酒屋では、私の会社とは別のテレビ局の二人の社員がこの話をしているようだ。彼らの話しにちょっと耳を傾けてみよう。

「おい、今度の文藝春秋読んだか」
「いや、まだ読んでないけど、なんかSABO社長がずいぶん過激なことを言っているみたいだな」
「いや、過激なんてもんじゃないよ。今まで、彼のしようとしていることは、放送界の改革を断行して、この業界の(かか)える様々な問題を解決しようとすることだと思ってた」
「ていうことは、そうじゃなかったのかい」
「いや、それはSABO社長の考える改革の半分にすぎない。もう半分は、『報道の革命』を行うことさ」
「報道の革命?」
「そう。彼が言うには、日本の新聞やテレビの行ってきた報道は、報道の名に(あたい)しないそうだ。世界には真実を報道するために命をかけているジャーナリストが数多くいるのに、日本の新聞やテレビは自己保身と自己利益ばかり考えている。弱者には強いが強者には弱く、自分たちに都合(つごう)の悪いことや、報道するのに勇気がいるようなことは一切報道しない。自分に都合のいいことのみを報道するのは、ヒットラーやスターリンだってやった。だから日本の新聞やテレビは自由主義国、言論の自由がある国の報道機関とはいえないというのだ」
「ふーん、事実かもしれんが、放送会社の社長としては、ずいぶん思い切ったことを言うなあ」
「事実を報道しないで国民に真実を伝えないということ自体が、マスコミの倫理に根本的に反する反道徳的なことだから、自分はこれからテレビを通じて初めて国民に真実を知らせる『報道の倫理革命』を行うというんだ」
「倫理革命?」
「そう。数十年前まで(さかのぼ)って、日本の新聞やテレビがなぜ事実を報道せずに国民を(あざむ)いてきたかの検証、総括(そうかつ)を、ゴールデンタイムで生放送で行うということだ。たとえば、かつて中国が行った文化大革命や、チベット侵略と大虐殺(ぎゃくさつ)、それに国内では同和問題といったタブーだね」
「『朝生(あさなま)』をゴールデンタイムにやるわけか」
「いや、『朝生』でもとりあげられなかったタブーも扱うようだ。実名はあげてないが、巨大な宗教団体や大手芸能事務所とか言ってたから、創価学会やジャニーズ事務所の批判も行うみたいだ」
「まさか。……そんな番組にスポンサーが付くわけないじゃないか」
「いや、スポンサーが付かなくてもやるみたいだ。それが『公器』としてのテレビの義務だというんだ。それだけじゃない。新聞のいわゆる押し紙問題も取り上げるそうだ」
「押し紙って、あの大手新聞社が販売店に新聞を押し売りしているっていう話か」
「そう」
「だけど、新聞社はあの放送会社の大株主だろう。新聞社が絶対に触れられたくないことをやれるわけないじゃないか」
「しかし、SABO社長が言うには、大株主だけど株の過半数を持っているわけではないというんだな。いや、仮に過半数を持っていたとしても、言論を守るべき新聞が、言論の自由を弾圧するというのは自己否定だから、すべきではないというんだ」
「すべきではないといっても、当然するだろう」
「しかし、彼はこうも言ってた。自分は押し紙というのが本当に存在するのかわからない。ただ、こうした問題が出てきた以上、新聞は自分の紙面の社説などで事実を述べて身の潔白を主張すべきなのだが、なぜかやっていない。だから私は、テレビに新聞社の社長に出てもらって、ぜひとも潔白であることを視聴者に向かって述べてもらいたいと思う。本当に無実なら、こうして()(ぎぬ)を晴らす機会を得ることは新聞社が望むはずだし、それが新聞社の義務だろう……て」
「ふむ。そう言われると、新聞社も表向きはノーと言いにくいな。しかし、これでSABO社長はすべての放送会社と主要な新聞社、それに大手芸能プロや大宗教団体など、大権力をみな敵に回してしまったわけだ。これじゃ、一巻の終わりだね。大改革をしようとする者は、昔から織田信長や大久保利通、それにジュリアス・シーザーやリンカーンみたいに、たいてい殺されている。今は現実に殺されることはなくても、社会的には(ほうむ)られるだろう」
「ただ、ぼくが疑問なのは、あのSABO社長の行動だ。彼はバカには見えない。それなのに、なぜこんな大反発を招くようなことを最初に発表したのかということだ。勝算もないのに、こんな発言はしないだろう?」
「ふむ、それもそうだな」
「ぼくが思うに、彼は世論を味方に付けようとしているのじゃないかということだな」
「世論?」
「そう。実際、新聞の社説などでは『SABO社長の無謀な改革案』とかいうタイトルで批判されているけど、インターネットでは圧倒的に支持されている。週刊文春や新潮も応援しているし」
「しかし、世論というのは新聞やテレビが形成してきたようなものだからね。ネットで発言する連中なんて烏合(うごう)の衆だろう」
「いや、そこだよ。彼は今、その世論を形成するテレビという武器を手に入れたんだ」
「……そうか。彼は今や放送会社の社長だから、やろうと思えば、そのテレビを使って世論を自分の味方に付けることだってできるわけだ」
「ああ、そうさ」
「しかし、そんなことは改革に反対する連中が許さないだろう」
「うん、おそらくな。まあ、これからSABO社長と、改革を阻止しようとする連中との壮絶なバトルが()り広げられるだろう。これは見物(みもの)だよ」
「しかし、我々だって業界の中にいるわけだから、そんな悠長(ゆうちょう)なことは言ってられないぞ」
「そうだな。SABO社長の行う大改革の嵐に業界全体が巻き込まれて、他社の俺たちもリストラの対象にならないともかぎらないからな」
「しかし、おそらく彼は辞任に追い込まれるか解任されるね。こんな無謀(むぼう)な挑戦が成功するとは思えない」
「しかし、それには大義(たいぎ)名分(めいぶん)がいるだろう。国民の人気を得た彼を辞めさせるのは容易なことじゃないぞ」
「まあ、大義名分なんていうのはいくらでも作れるさ」
「どうやって……」

テレビ番組の下請けプロはゼネストを決行せよ
 以上が小説風『もしもSABOが放送会社の社長になったら』である。「え、ここで終わり? これからがいよいよ面白くなるんじゃないの。SABO社長と重役たちのバトルが始まるわけだから」と言われるかもしれない。じつは私は当初、このあとの展開も小説風に書くつもりだった。SABO社長が世論を味方につけて放送界の大改革を行おうとするのを、反対派の連中が社長の女性スキャンダルをでっちあげて引きずり下ろそうとするというようなストーリーである。しかし、私がこの論文を小説風に書いたのは、現在の放送業界の抱える問題点や、それに対する私の改革案をわかりやすく説明するためで、面白い物語を書くのが目的ではない。これ以上「小説風」を続けると話が横道にそれてしまうので、このあとは放送業界の大改革を可能にする唯一の具体的方法について述べようと思う。

 今まで書いてきた「小説風」を見てもらってもわかるように、仮にリーダーシップを持った優れた経営者が放送会社の社長になったとしても、現実に改革を成功させるのは至難(しなん)(わざ)である。特に下請けの番組制作プロへ渡す制作費を大幅に上げるというようなことは、会社の重役や社員のみならず、株主や同業他社の大きな反対に会うだろう。それは社会的・倫理的に正しい選択ではあるが、営利企業として、少なくとも短期的には合理的な行動とはいえないからである。社員の給与も、上げるのは簡単だが、下げるのは容易ではない。まして会社が倒産の危機に(ひん)しているわけでもないのに、大幅にダウンさせることは不可能に近い。要するに、何かとてつもない「危機」でもないかぎり、改革に徹底して抵抗する官僚的組織になっているともいえる現在の放送会社の大改革を実現するのは、きわめて困難ということである。しかし、であるなら、人為的にその「危機」を作り出してしまえばいいではないか。

 1973年のことである。日本の声優たちの属する三つの団体が、あまりのギャラの安さにたまりかねてストライキに突入しようとしたことがあった。声優たちの要求は、なんとギャラの三倍アップ。当時は国鉄などの交通機関が賃上げなどを求めてストをすることはしばしばあったが、それらの要求とはまさに桁違(けたちが)いの額である。私は当時大学生だったが、当然こんなとてつもない要求を放送会社が()むはずはなく、ストライキは不可避であると考えていた。ところが、意外にも放送会社はこの要求を100%受け入れ、ストライキは回避されたのである。まさに「拍子(ひょうし)抜け」とはこのことである。まあ、それだけ声優のギャラが異常に安かったということだろうが、もしこれがハリウッドだったら、こんなことは考えられないだろう。

 ハリウッドには俳優や監督などの組合があるが、日本の同じような「~協会」といった団体と異なり、待遇改善のためにはストライキも辞さないという強硬な態度をしばしばとる。記憶に新しいのは、2007年から2008年にかけて三カ月にもわたって実行された脚本家組合のストだろう。多くのテレビ番組が制作中止に追い込まれても長期にわたるストを続けたのだから、いい悪いは別として、ストをするほうも、されるほうも「骨」がある。もしハリウッドの俳優やスタッフが日本の放送界の現状を知ったらどうだろう。おそらく仰天(ぎょうてん)して次のように言うのではないだろうか。

「日本の放送業界では、実際にテレビ番組を制作している下請けのプロダクションはわずかの制作費しか渡されず、スポンサーから受け取った金をピンはねしている放送会社の社員が高給を取っているそうじゃないか。それなのに我々のようにストライキをして正当な報酬(ほうしゅう)を要求するような行動に全く出ないという。日本という国は中国や北朝鮮のように独裁国家なのか。ストをしたら逮捕されたり殺されたりするのか。いや、表向きはストが禁止されている中国だって、多くの工場でストが頻発(ひんぱつ)して賃上げを実現している。ということは、日本のテレビ番組制作会社の人間は放送会社の奴隷か、あるいはマゾヒストなのか。しかし、日本でも、かつて声優たちはストライキの実行を宣言して大幅なギャラのアップを実現したそうではないか。彼らの勇気を少しは見習ったらどうか。あなたたちは日本の世論を形成するマスコミの代表でもあるわけだろう。それならマスコミが行っているこのような不正義を放置することは許されることではない。あなたたちはストライキをしてこのような社会的不公正を是正(ぜせい)する権利があるだけでなく、義務もあるはずだ」

 先程『もしもSABOが放送会社の社長になったなら』という、私が放送会社の社長になった場合のシミュレーションをしてみた。しかし、前にも指摘したように、仮に私が社長になって下請けの番組制作プロに渡す制作費を大幅に増やそうとしても、重役たち、社員、株主、同業他社等の猛反対に会うことは確実なため、きわめて困難である。そうしたとき、番組制作プロの団体がストライキをちらつかせて大幅な制作費のアップを要求してくれれば、それを実現する「口実」となり非常に助かるのである。すなわち、もし放送会社の内部に改革派の人間がいたとしたら、番組制作会社のストは彼らの行動を支援することにもなる。

 結論をいえば、現在放送界の抱える数多くの問題を一気に解決する方法は、ただ一つしかない。放送番組を作っている人々によるゼネストの実行である。


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